── これはフィクションのシミュレーションです。
実在の技術・人物・団体とは関係ありません。
でも、起きなかった理由を、誰も説明できない。──
「大切な人のことを、忘れたくない」——そんな願いから始まったサービスが、気づけば街の標準機能になっていた。もしもボックスに「記憶が薄れない世界だったら」と願う人が増え始めたのは、ここ数年のことだ。最初は前向きな思い出の保存として歓迎されていたはずのそれが、今、静かな違和感とともに語られ始めている。
夕暮れの商店街を歩けば、窓越しに見える家々の灯りの中に、静かに画面を見つめる人の姿がある。誰かとの記憶を、繰り返し確かめるように。
「忘れたくない」から始まった小さな願い
きっかけは、ごくささやかなものだったという。ペットを亡くした人が、恋人と別れた人が、疎遠になった友人との記憶が、ふとした瞬間に薄れていくことへの寂しさを口にする。もしもボックスに「あの記憶が、いつまでも鮮明なままだったら」と願う人が、ぽつりぽつりと現れ始めた。
利用者の多くは、最初は前向きな動機を語っていた。楽しかった旅行の記憶、家族との会話、大切な人の笑顔——そうしたものが時間とともに輪郭を失っていくことを、惜しいと感じる人は少なくない。もしもボックスの利用者アンケートでも、「思い出を大切にしたい」という回答が上位を占めていたと報じられている。
行政の担当者は当初の取材に対して、「心の豊かさに寄与する取り組みとして注視している」と、慎重ながらも肯定的なコメントを寄せていた。専門家の一人も、「記憶を大切にする姿勢そのものは、健全な心の働きの一部」と述べ、サービスの普及を穏やかに見守る姿勢を見せていたという。
利用を始めたばかりの頃、多くの人はただ嬉しかったという。古いアルバムをめくるときのような、少しくすぐったい懐かしさ。忘れずにいられることが、誰かを大切に思い続けている証のように感じられた、とある利用者は語る。
右肩上がりに広がる利用者数

普及のスピードは、当初の想定を超えていた。最初は一部の利用者による、ごく個人的な選択だったものが、口コミやニュースを通じて広がり、気づけば「もしも箱」という言葉が、記憶にまつわる願いの代名詞のように使われるようになっていた。
ある調査会社の報告によれば、利用開始から一年で利用者数は数倍に膨れ上がったとされる。当初は年配層を中心とした利用が目立っていたが、次第に若年層にも広がり、卒業や引っ越し、別れといった人生の節目を迎える度に、もしも箱を選ぶ人が増えていったという。
サービス提供側の視点に立つと、この広がり方には一つの特徴があった。「薄れない記憶」を選ぶという行為自体が特別なものではなく、日常の延長線上にある選択として受け入れられていったことだ。かつては「大切な決断」として語られていたものが、いつの間にか、当たり前の選択肢の一つへと姿を変えていた。
提供側の担当者の一人は、初期の頃を振り返り、「まさかここまで広がるとは思っていなかった」と静かに語ったという。当時のオフィスには、利用者から届く感謝の声が日々積み重なっていて、それが普及を後押しする一因にもなっていた、と。
色褪せない記憶が、日常に忍び寄るころ

けれど、普及が進むにつれて、少しずつ違う声も聞こえるようになった。
別れた恋人との記憶。すれ違ったまま疎遠になった友人とのやりとり。うまくいかなかった家族との会話——そうしたものまでもが、色褪せることなく鮮明であり続ける。最初は「忘れたくない」という願いから選んだはずのものが、忘れられない、という状態と紙一重であることに、多くの利用者が後になって気づき始めた。
ある利用者は、当時をこう振り返っている。「楽しかった記憶だけを残したいと思っていたはずなのに、気づけば、うまくいかなかった日のことまで、同じ鮮明さで残っていた」。記憶は、都合よく一部分だけを選んで薄れさせることはできない。喜びも、気まずさも、痛みも、等しく鮮明なまま日常に居座り続けることになる。
こうした状態が長く続くことによる、じわじわとした心理的な重さについては、複数の調査で言及され始めている。専門家の中には、「記憶を保持し続けることが必ずしも心の安定につながるとは限らない」として、慎重な見方を示す声も出てきている。すべての専門家が肯定的なわけではなく、利用のあり方について、今後さらに検討が必要だという指摘も一部にある。
夜、ふと画面を開いてしまう癖がついた、と話す利用者もいる。眠る前のわずかな静けさの中で、指先が自然と記憶の記録へと伸びる。見るつもりはなかったのに、と本人も戸惑い気味に語っていた。
それぞれの記憶との、それぞれの距離

もしも箱を選んだ人すべてが、同じように重さを感じているわけではない。楽しい記憶だけを繰り返し眺め、穏やかな時間を過ごしていると語る利用者も、もちろん少なくない。
ある高齢の利用者は、亡くなった配偶者との記憶を「薄れないでいてくれて、ありがたい」と話す。長い年月をともに過ごした相手との記憶が、色褪せることなくそばにあることは、その人にとって確かな支えになっているようだった。窓辺の椅子に腰掛け、ゆっくりと午後の光を浴びながら、思い出をたどる時間は、静かで穏やかなものだという。
一方で、同じサービスを利用しながら、少しずつ表情を曇らせていく人もいる。別れた相手との些細なやりとりまでもが、当時のままの温度で残り続けることに、戸惑いを覚え始めたという声も聞かれる。楽しかった記憶と、うまくいかなかった記憶は、都合よく分けて保存できるものではない。同じ濃さで、同じ鮮明さで、日々の暮らしの隅に居座り続ける。
この差が何によって生まれるのかについては、まだはっきりとした答えは出ていない。ある研究者は、「記憶との向き合い方には個人差があり、一律に評価できるものではない」と述べつつも、「長期的な利用実態については、継続的な観察が必要だろう」と付け加えている。
「もう、忘れていいのに」という、ふとしたつぶやき
行政や一部の専門家は、依然として「心のケアの選択肢の一つとして機能している」という、比較的前向きな評価を続けている。大きな混乱や制度上の問題が表面化しているわけではなく、多くの利用者にとっては、今のところ穏やかな日常の延長にあるサービスとして受け止められているようだ。
それでも、街のどこかで、ふとこぼれる一言がある。ある利用者は、かつて大切だった人との記憶を眺めながら、こうつぶやいたという。
深夜、部屋の灯りを落とした静かな時間。画面の光だけが頬をぼんやりと照らす中で、その人はしばらく黙り込んでいたという。そして、誰に言うともなく、こうつぶやいた。
「もう、忘れていいのに」
薄れない記憶は、時に、忘れることそのものが持っていた優しさを、静かに奪っていくのかもしれない。もしも箱が広げたのは、思い出を守る場所だったのか、それとも、離れられない場所だったのか——その答えは、まだ誰にも分からないままだ。
もしもボックスという道具そのものについては、こちらの図録で詳しく紹介している。
「忘れられない世界」の対極にあるのが、「誰も思い出せない世界」だ。合わせて読むと、もしもボックスが世界に与える影響の幅広さが見えてくる。
【免責事項】
本記事はIF-Science Labによるフィクションの社会シミュレーションです。
実在の技術・制度・団体・人物とは一切関係ありません。
記事内のシナリオ・数値・固有名詞はすべて架空のものです。
特定の立場・思想を推奨するものではありません。
【心理・精神に関する免責】
本記事における心理・精神に関する記述は、
フィクションのシミュレーションです。
実際の精神医療・カウンセリングを代替するものではありません。
精神的なサポートが必要な場合は専門家にご相談ください。

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